御嶽昇仙峡 金櫻神社 思いで

御嶽山 昇仙峡 金桜神社由緒略記

 

祭 神 少彦名命(すくなひこなのみこと)須佐之男尊(すさのおのみこと)大巳貴命(おおなむちのみこと)

例祭日 四月二十一日 二十二日

金桜神社の縁起は遠く崇神天皇の御代(約二千年前)に遡ります。当時各地に疫病が蔓延し悲惨を極めましたので、天皇はこれを深く憂慮せられ、諸国に神祗を祀り、悪疫退散萬民息災の祈願をするよう命ぜられました。この時甲斐の国では金峯山の頂に少彦名命を祀られましたのがこの神社の起こりでありまして、延喜式の神名帳にも「甲斐の国山梨郡 金桜神社」と載っているのであります。降って景行天皇の四十年、日本武尊が御東征の砌金峯山の上のこの社に詣でられ、須佐之男尊・大巳貴命の二神を合祀されましたので、御祭神は三柱となります。

その後、天武天皇の二年に至り、大和国吉野郡金峯山の蔵王権現を合祀して、神仏兩部の祭祀を執り行うこととなりました。

当時は別当以下百余名の神主僧侶が奉仕し、頗る盛大を極め、御社運は漸次隆盛に赴き東国の名社として遠近の崇敬を集め、その信仰は甲斐国はもとより、関東全域・越後・佐渡・信濃・駿河の各地に及び春秋二回の配札が行われていました。従って領主や武将の崇敬も厚く、それ等の人々によって寄進されました社殿は実に壮観を極め鎌倉時代の建築で重要文化財に指定されていた中宮及東宮を始め、武田兩時代の文化の粋を集めた建造物は稀に見る見事なものでありました。

明治の御代に至り、神仏分離が行われ、神社は国家の宗祀として尊宗せらるることとなり、最初鄕社に列せられましたが大正五年には県社に昇格せられ、山梨県下の大社として広く全国に知られて参りました。

大東亜戦争の終結により神社制度にも一大変革が行われ、昭和二十一年神社は国家の保護管理を離れまして、宗教法人として取り扱われることとなりましたので、当神社も本庁に属する宗教法人として最出発致しました。

以上の如く、当神社の奉仕経営上には幾多の変遷が行われましたが、巨大なる老杉に囲まれた壮麗豪華なる御社殿は昔ながらの偉容を保ち、崇高なる御神徳は広く世の人々に光被し、日本随一を誇る渓谷美御嶽昇仙峡を探ねる人々の増加と相俟ちまして、参拝者の数は年と共に倍加しつつありました。

 

御社殿炎上

昭和三十年十二月十八日払曉、神札授与所より突如として出火、月余に亘る旱天のため猛火はその勢いを恣にし、消化機能の不足と用水不便の爲如何とも方法もなく、随神門、舊宝物館、神楽殿、神楽控室と次々に延焼し、遂に拝殿、本殿及び中宮、東宮と燃え移りこれを炎上、更に三攝社、大皷堂に燃え拡がり、さしも壮大に誇った十三棟の建物が悉く灰燼と化し、七百余年の歴史を伝えた文化財は一瞬にして烏有に帰したのであります。

御神体は恙なく社務所仮御座所に奉遷し、社宝並に神楽装束、面類を始め什器一切は欠くることなく搬出されましたことは、社務所。休憩所をまぬかれたのと共にせめてもの幸いでした。

 

思い出

全てを焼き盡した焼跡に佇んで、周囲を顧みれば萬感胸に迫って落つる涙を禁じ得ず、在りし日の俤は彷彿として眼底に蘇り、「思い出」はつくる処ありません。

玆に在りし日の御社殿の御写眞と共に火災当時撮影した実写を収めて、粗末ながら写眞帳を作りました。往時を偲び、炎上の模様を排し、胸も張裂くる思いでありますが当時の偲ぶよすがとして氏子崇敬者の皆様に御覧戴くことと致しました。

 

昭和三十一年夏日

 

甲府市御嶽町

金桜神社 宮司 藤岡好春